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TSUKUBA FRONTIER #053:においは大切なコミュニケーションツール

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人間系
綾部 早穂(あやべ さほ)教授

PROFILE

筑波大学第二学群人間学類卒業後、高砂香料工業(株)総合研究所での勤務を経て、筑波大学大学院心理学研究科に進学。
その後、米国の Philip Morris USA 感覚研究所にて研究経験を重ね、現在はにおいの知覚、記憶、感情、個人差、コミュニケーションに関する心理学研究を展開している。
産学官連携を含む国内外の研究経験を活かし、においの言語化や経験による知覚変容、経験共有をテーマに、嗅覚を通して人のこころを探究している。

嗅覚が呼び起こす記憶や感情を探る

視覚や聴覚に比べると、嗅覚は言語化や定量化が難しい感覚です。
しかし身の回りには気になるにおいがたくさんありますし、ふと嗅いだにおいから懐かしい記憶が蘇ることも珍しくありません。
私たちはどのようにしてにおいを認知するのか、日々の暮らしや感情とどのように結びついているのか、知覚心理学の観点からその謎を解き明かします。

嗅覚は「原始的な感覚」?

 同じにおいでも、それをどう感じるかは人それぞれです。あるにおいから子供の頃の出来事が思い出されたり、一般的には嫌がられるようなペットのにおいで気持ちが安らいだり。一方で、においに鈍感な人もいますし、繰り返し嗅いでいるうちに感じ方が変わることもあります。かつて、嗅覚は原始的な感覚で、情動的な神経処理回路と強く結びついていると考えられていましたが、近年では、それに加えて、過去の記憶や経験と照らし合わせながら、においの知覚が学習によって形成されることも示されてきました。香水の調香師やワインのソムリエが、微妙なにおいの違いを嗅ぎ分け、的確な言葉で表現できるのは、決して特殊な能力ではなく、トレーニングの積み重ねによって得られたスキルなのです。

 それには、さまざまなにおいに接し、経験や感情と関連付けながら、その人なりの「においの覚え方」を確立していきます。だからこそ嗅覚は個人差が大きく、そこが研究の悩ましいところである反面、実験デザインを考える楽しさでもあります。

知覚心理学の実験手法

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 嗅覚を扱う研究テーマは多岐にわたります。とくに人間の嗅覚は、視覚などの他の感覚情報や過去の経験・記憶と複合的に機能しており、その知覚の仕組みを理解するためには、人を対象とした実験が欠かせません。さらに、においは記憶や感情を喚起しやすく、その受け取り方には大きな個人差がみられるため、こうした違いも重要な研究対象となります。

 実験では、嗅覚の個人差そのものの他、気分の違いによって生じるにおいの感じ方の変化や、においに喚起される感情がもたらす行動の変容、においと視覚イメージとの関連付けなど、さまざまなにおいの捉え方に着目します。

 厄介なのは、「基準となるにおい」というものが存在しないこと。かといって、誰も知らないような特殊なにおいというのも扱いにくく、むしろ、個々の実験の目的に応じて、食品や草花はもちろん、たばこ、い草、墨汁、クレヨンなどなど、身の回りのありとあらゆるもののにおいを使い、被験者の反応と組み合わせて、さまざまな経験・記憶と嗅覚との関連を探っていきます。

においが促すコミュニケーション

 嗅覚は胎児期から発達し、母親の食事や生活環境等が影響することが知られています。生後も周囲の環境を認識し、人との関わりの中で経験を共有する上で重要な感覚であることから、子どもの嗅覚や、においを介したコミュニケーションも研究対象としています。

 においをきっかけに行われるコミュニケーションは、言語表現や対話の能力向上にも役立つ可能性があります。親子やきょうだい、友人などとの間で、互いににおいを言い当てるゲームを行ったところ、母娘のペアの成績が良く、経験の共有が言葉の表現力に関係すること、また、性別や両者の関係性によっても違いが生じることが示されました。こういった知見を、においを活用した経験の共有促進やコミュニケーション力向上のための教育プログラム開発につなげていく検討も進めています。

嗅覚の社会的役割を追って

 卒業研究のテーマとして、知覚心理学としては誰も扱っていなかった嗅覚を選んだのが最初でした。教員からは指導が難しいと言われたものの、製品科学研究所(現在の産業技術総合研究所)で行われていた悪臭防止の研究に参加することになり、本格的な嗅覚研究に踏み出しました。嗅覚の研究者は、生理学や医学分野では増えていますが、心理学の中ではいまだに少数派。そのユニークさが強みでもあります。

 においというのは自分だけの感覚であると同時に、多くの人が日常生活の中でいろいろなモノや人と接することで、社会全体として共有する側面もあるはずです。そういう点では、とりわけ、コロナ禍で人と人との接触が激減した時期に、症状の一つとして注目された嗅覚異常とは別に、人々の嗅覚にも何らかの影響が及んだ可能性が考えられます。世代を横断して長期的に見ていかなければならない難しい課題ですが、今後、取り組んでいきたいテーマです。

筑波大学人間系 綾部早穂研究室

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 主ににおいを中心とした感覚知覚を、記憶・感情・言語・社会的経験との結びつきの中で研究している。知覚体験がどのように意味づけられ、言葉として表現され、他者と共有されるのか、また、経験や文脈によってその感じ方がどのように変化するのかを、心理学的実験を通して探究する。行動実験や主観評価、言語データの分析を組み合わせながら、人のこころとコミュニケーションの仕組みを考える研究室。

綾部早穂研究室ウェブサイト

(文責:広報局 サイエンスコミュニケーター)

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