社会・文化

TSUKUBA FRONTIER #016:ともに学ぶよろこび ~人がつくる教育の真髄を求めて~

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人間系 片平 克弘(かたひら かつひろ)教授

昭和31年 宮城県生まれ
昭和54年 筑波大学第一学群自然学類化学専攻卒業
昭和55年 調布学園調布中学高等学校教諭
昭和61年 筑波大学大学院修士課程教育研究科教科教育専攻修了(教育学修士)
平成元年 筑波大学大学院博士課程教育学研究科学校教育学専攻退学(昭和63年 教育学修士)
     鳴門教育大学学校教育学部助手
平成 5年 放送教育開発センター研究開発部助教授
平成 7年 埼玉大学教育学部助教授
平成17年 埼玉大学教育学部教授
平成20年 筑波大学大学院人間総合科学研究科准教授
平成24年 筑波大学人間系教授 博士(教育学)
平成26年 筑波大学附属小学校長


人が教育を変える

 学校教育、とりわけ初等・中等教育は、子どもたちのその後の人生に大きな影響を与える重要な学びの場です。その中で教師の果たす役割は、勉強を教えるだけにとどまらず、生活態度や集団行動の指導など多岐にわたります。大勢の子どもと接しながら、その一人ひとりとの関係も構築しなくてはなりません。生徒は、好きな先生が教えてくれる教科は好きになります。同じことを学ぶにしても、誰がどのように教えるかによって、結果は大きく異なるわけです。これが教師のやりがいにつながります。
 自分自身も、小・中・高校のそれぞれで、理科の先生に恵まれました。好きな先生、頼れる先生だったからこそ、疑問や質問も積極的に投げかけることができました。そのような学びの経験が、後の進路を考える上で大きく影響したのです。
 教育が人を変える、とよくいわれます。しかし現実には、家庭や学校でどんな人に出会うかによって、そもそもの教育の前提が変わってしまいます。環境や施設を整えることももちろん重要ですが、学ぶ意欲をかきたててくれるのはやはり、人。そう考えると、人が教育を変える、という側面もまた真だといえるでしょう。教師の責任はますます重大です。

授業者から授業の観察者へ

 両親、祖父も学校の先生という家庭で育ちました。就学前から母親が教鞭をとる小学校で多くの時間を過ごし、自らも教育者の道を選んだのは、ごく自然な流れでした。教員免許を取得してすぐに、中学・高校の理科教員として教師生活をスタートしました。各学年の授業を受け持ち、クラス担任も務め、教えることに対する誇りも持てるようになりましたが、その一方で、学校の仕事に携わる中には、校則違反を犯した生徒や不登校の生徒への対応などもありました。生徒の家を何度も訪ねたり、他の生徒たちにも協力を仰いだりしながら、なんとか対処したものの、それらの経験は、教職課程で学んだこととはかけ離れており、若い教師の心にとても重くのしかかったのでした。
 教科を教えることへの情熱は変わりませんでしたが、それ以外の部分で、生徒の一生を左右するような場面に関わるには力が足りないことを痛感し、教育についてもっと深く学ぼうと、大学院に戻ることを決心しました。
 それ以来、取り組んできたのは、現場の教育を基礎づける理論の研究です。より良い授業を目指して、教師たち自身も学び、様々な工夫を凝らしていますが、思うようにいかないこともしばしば。どうしても、日々の授業に追われてしまい、ひとつひとつの授業や活動が、教科や単元の中でどのような位置付けにあるのか、本来の学習の全体像を見失ってしまいがちです。研究者として、教師が与える課題や教材に対して生徒はどのように反応し、変化するか、それを見極めようとしています。
 こういった研究には、エスノメソドロジー的な手法(集団内の秩序が生成していくプロセスを分析する)を用います。教育は人間を対象にしますから、いわゆる「実験」をすることはできません。教育現場で行われる事例を積み重ね、その中から何らかの傾向を見出し、最善の方法を探ります。授業を実施している教師自身が、同時に個々の生徒を観察することは困難なので、第三者である研究者が教室全体をメタ認知的に捉える役割を担います。あたかも透明人間のように授業環境の中に身を置き、授業の様子を客観的に観察し、分析します。生徒同士のコミュニケーションなど、授業者の目の届きにくい教室内の動きも細かくチェックすると、授業の本当の効果が見えてきます。

理科教育の魅力

 授業の資料や教材が詰まったカートを引いて通勤するのが日課です。特に使う予定がなくても、いつも手元に置いておきたいと、毎日自宅へ持ち帰ります。それほど思い入れがあるのが教材。特に理科は、実験や観察などの活動が重要な位置を占める教科です。効果的な学習には、教材の工夫が欠かせません。だからといって、導入からいきなり理科室にあるような完成された実験器具に触れさせるのではなく、まず、理科の世界に入っていくための扉を開かせるものが必要です。それには、身近にある材料や道具を活用したり、遊びの要素も取り入れた様々なツールを提示し、その中から子どもたちの興味や好奇心を引き出すものを探ります。それをもとに、学びの段階に応じて、教材も発展させていきます。
 日常的に情報過多な環境で生活している子どもたちに対して、集中できる適当な教材を見つけることはなかなか大変です。教材を考えることは、理科教育の大きな魅力のひとつです。しかし、教師が考え抜いて用意した教材が、必ずしも意図した通りの効果を発揮しないこともあります。授業を客観的に観察していると、子どもたちが実際にどんなふうに教材を使っているか、どんなところでつまずいてしまうのかが明らかになり、教材のデザインや使い方についても、改めて見直すことができます。

教育的タクト

 そのようにして授業を観察した結果は、教師にフィードバックし、その後の授業に生かされます。けれども、クラスごとの性格も異なりますし、教師自身のコンディションや、教室の環境も絶えず変化します。褒めたり叱ったりという声掛けも、対象の生徒本人だけでなく、周りの生徒への影響も含めて考えなければなりません。授業のやり方に普遍的な最適解は存在せず、同じ授業内容でも、いつも同じように進められるわけではないのです。その場の状況を瞬時に判断し、適切にアジャストして、より良い授業に導くことが求められます。
 この、アジャストするというところが、教師の腕の見せ所。いろいろなアイデアを駆使して、オーケストラの指揮者がタクトを振って調和のとれた音楽を奏でるように、教師の采配を通して生徒とともに授業を作り上げる、つまり、教育におけるタクトさばきが授業の成否を決めるのです。生徒が変われば、当然、タクトの振り方も変えることが必要です。
 ただし、オーケストラと違って、授業は生徒を相手に練習することができませんから、現場で試行錯誤を繰り返しながら、その時々の状況に応じた巧みなタクトさばきを身につけ、常に授業を改善していくことになります。それには、自分の知識や体験を活用しながら教師としての経験を積み、タクトを振る技をたくさん習得し、かつ、その技を適切に使い分けることが大切です。授業観察者、すなわち教育研究者の眼は、タクトを振る技の幅やその使い方を広げるための特別な視力を持っていなければなりません。

開かれた校長室

 附属小学校の校長として、週に2日は校長室で過ごします。校長室というと、特別な時に緊張しながら行く場所、というイメージもありますが、この校長室には、休み時間になると、学年もクラスも関係なく、子どもたちが自由に出入りします。先々代の校長が開放して以来、校長室は子どもたちの憩いの場。校長先生とおしゃべりをしたり、ぬり絵などをして遊んでいきます。普段の教室にいるときとは別の姿も見せてくれます。
 これには、保健室や図書室のような、子どもにとってのある種の隠れ家的な意味もあります。一見、どの子も明るく快活ですが、教科担任制の附属小学校では、たくさんの教師と関わりますし、6年間でクラス替えは1度だけ。また、運動会などでは明確に順位をつけ、授業でも課外活動でも真剣勝負をする校風です。そのため、人間関係に悩んだり、ストレスを抱えている子どもも珍しくありません。校長室は、そういった子どもたちが、教室以外で気兼ねなく長居できる場所でもあるのです。
 どんなに忙しくても、子どもたちがやってくれば、仕事の手を止め、彼らの話に耳を傾け、一緒に遊びます。日ごろから、子どもたちの気を惹きそうなガジェットを集めておくことも心がけています。
 校長室にはノートがあって、訪れた子どもたちがそれぞれ自分のページ(マイページ)に、日記代わりにメモを残したり、好きなシールを貼ったりしていきます。校内を歩いていれば、子どもたちがいつでも手を振り駆け寄ってくるのも、この親しみやすい校長室の延長でしょう。


ともに学ぶ教育に向かって

 教えたい、という一心だった教師時代から、研究者として教師や子どもたちを支援する立場になり、教育に対する考え方も少しずつ変わってきました。近年、アクティブラーニングなど「協同の学び」が注目されています。しかし、単にみんなで実験や観察をすれば自動的に学びが生まれるわけではありません。同じ課題を共有し、考える中から何かを得ることが重要です。
 みんなで活動する前後に、一人でじっくり考えたり振り返ることがあって初めて、協同することの意義が現れます。見かけは一人ずつバラバラに考察しているようでも、その時間をともに過ごす、そしてその場に教師も一緒にいることが、いちばんの支えになるのです。
 これは大学のゼミでも同じです。課題はより高度になり、明確な答えが見つからないことも増えます。そんな時には沈黙が流れます。これがまさに協同の学びの時間。学生・院生にとってはつらい時間かもしれませんが、その中でともに逍遥し、答えを導き出すことが大切だと感じています。
 学習者の能力を少しつ高いレベルへと引き上げるための足場をかけてあげるのが教師の役目ですが、もっと大事なのは、その足場を適切なタイミングで外すこと。足場をきちんと取り除かなければ、建物は完成しません。子どもに限らず、あるところまで到達したらそれ以上の助けは得られない状況を作り、学びの責任を本人に移譲すること、これによって人は自立した学習者へと成長していきます。
 ゼミでの沈黙の時間は、学生・院生を突き放し、自分で進むべき方向を見出すよう促す瞬間でもあります。ともに学ぶ教育の楽しさをかみしめつつ、優しさの中にも厳しさのある眼差しで、学ぶ者たちの成長を見守ります。


 

(文責:広報室 サイエンスコミュニケーター)


創基151年筑波大学開学50周年記念事業