TSUKUBA FUTURE #089:学問としての国際政治学
人文社会系 南山 淳 准教授
第一次世界大戦が終わり、疲弊した世界は大戦の再発を避けるために国際連盟を結成しました。そうした動きの中で、国際政治学は産声を上げました。それまでは外交史として取り上げられていた課題が、国家とは何かを論じることから始めて、戦争が起こるメカニズムと平和を実現するための条件を探究していく必要性が生じたのです。ところが、世界は再び大戦の渦に飲み込まれました。そして第二次世界大戦後、世界は資本主義と共産主義が拮抗する冷戦体制に移行していきます。冷戦構造下の国際政治学研究は、冷戦がこの先も続くことを大前提に進められました。その結果、冷戦構造の崩壊とともに、多くの国際政治学者は思考停止に陥ったと、南山さんは語ります。多くの研究者が、研究対象と距離を置かなければならないのにその渦中に引きずり込まれてしまったというのです。
相対的な可能性を客観的に提示していくことが研究者の責務だと語る。
国際関係というと国と国との問題に思われがちですが、それはちょっと違うそうです。そもそも国、国家とは何でしょう。人はなぜ、集団をつくるのでしょう。これは社会思想や社会哲学にもつながる問いですが、国際政治理論はそこまでさかのぼって考察する必要があると、南山さんは考えています。しかも、日本語では「国」という言葉には「国家」という意味だけでなく、「故郷」という意味もあります。しかし、「国家」の意味や概念は、世界の地域や民族によって異なります。地域によっては、植民地崩壊後に国境が引かれた「国」よりも、民族的な帰属意識の方が強かったりします。そうした地域では、「国」を維持するための武力紛争が生じがちです。国境線だけで考えるのではなく、歴史的な背景が重要であると、南山さんは強調します。
講義で戦争の問題を取り上げるときは、チャップリンが制作・脚本・監督・主演の映画『殺人狂時代』(1947)の中で主人公の連続殺人犯が処刑場に向かうときに口にする「一人を殺せば犯罪者となり、数百万人を殺せば英雄となる、数が殺人を神聖なものにする」という台詞を紹介するそうです。「正当化」された戦争では、「敵」の殺害が正義の行為とされます。問題は、戦争を正当化することができるかということです。ここでも、戦争目的が正しいか否かの判断は、人によって,国によって、時代によって大きく変わってきます。たとえばイラク戦争では、大量破壊兵器の除去がアメリカの行動を正当化しました。しかし、結果的に大量破壊兵器の存在が確認されなかったことで、当初の正当性は根拠を失いました。もう1つこの例で教訓となるのは、そのときジョージ・W・ブッシュ大統領がイラクを「悪の枢軸」と決めつけたことに納得した人が世界中にたくさんいたことです。その理由は9.11のアメリカ同時テロにも遡ります。殺人は悪というのが、倫理的な規範です。しかしその規範が逆転されたのは、1指導者が発したメッセージのせいだけではありませんでした。どういう理由付けでそういう方向にいっせいに流れてしまうのか、どういうときに人は見たいものしか見えなくなるのか。そうした条件付けを一般化することも、国際政治を考える上で重要だと、南山さんは考えます。
南山さんは、毎年1、2回、高校での出前授業を行っています。そこで取り上げるのは、「多数決」というテーマです。50人のクラスで26対24の投票結果でそのまま決定してもよいのでしょうか。負けた側にも納得してもらえる決め方はないのかと、問いかけます。たとえ話として出すのがAKB総選挙です。1枚のCDを買って投票した人と、50枚のCDを買って50票を投票した人がいたとして、それを1票の格差と決めつけることは妥当なのでしょうか。こういう例をきっかけに、多数決に疑問符をつけておいて、最後は沖縄を話題にします。沖縄の基地問題は、多数決では解決できない。米軍関連施設の約73%が国土の0.6%しかない沖縄に集中しているという現実、敗戦後の日本の主権回復から沖縄の本土復帰まで20年遅れたという歴史の意味、近年東アジア情勢が緊張を増している点を考慮したとしても、冷戦期に比べて在沖縄米軍基地の重要性は低下しているという状況等を理解してほしいからです。
現在の学生の多くは、新聞を読む習慣なしに育ってきた世代です。個人の核となる価値観を身につけていないため、ワイドショーや、根拠が不明確なネット情報に流されがちです。南山さんは、そんな学生たちに向かって、自分の頭で考えることを説き続けています。
国際政治学とはワイドショー的な時事解説の延長だと思っていた学生は、
講義でのイメージのギャップに面食らうという。
文責:広報室 サイエンスコミュニケーター
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