TSUKUBA FUTURE #108:来た球を打ち返す社会科学
人文社会系 五十嵐 泰正 准教授
福島第一原子力発電所の事故以来、食物を巡る不安が一部に残っています。安全性を訴えるキャンペーンや講演会なども開催されてきましたが、科学的知識を伝えるだけでは限界があります。その原因の一つは、社会科学的な視点が欠如しているからだと、五十嵐さんは指摘します。
五十嵐さんは原子力問題の専門家ではありません。学生時代から慣れ親しんだ上野の研究がライフワークです。そのきっかけは、イギリス留学時の出来事。好きな都市を紹介する課題で上野を取り上げたところ、とても驚かれたそうです。ロンドンにそんな地区はありません。博物館などの文化施設からアメ横、ターミナル駅の上野駅、歓楽街まで、狭い範囲に雑多な都市的要素が同居する上野が、世界的に稀有な地域であることを、海外に出て認識したのです。
生まれも育ちも現在の住まいも柏の五十嵐さん。社会活動団体「ストリート・ブレイカーズ」の一員でもあります。柏の活性化を目的に1998年に創設され、ストリートミュージシャンを集めたイベントを中心に活動し、2009年からは手作り品の市と、その一角での地元野菜の直販を始めました。そこで起きたのが東日本大震災です。原発事故により、一時、柏は放射性物質の「ホットスポット」になりました。柏は有力な近郊農業地帯でもあり、この騒ぎで柏野菜の地産地消の取り組みは大打撃を受けました。五十嵐さんたちは、住民の不安解消とブランド価値回復に向け、地元の農家・消費者・流通業者・飲食店主を交えた「安全・安心の柏産柏消」円卓会議を組織しました。当初は重い空気に包まれたものの、幼稚園児保護者へのアンケートで、健康志向から地元の野菜を買っていた人ほど不安が大きいことがわかり、自分たちの手で農地の放射線測定を行うことに。すると、同じ農家の畑でも、場所によって測定値にばらつきがありました。雨水がたまりやすい所は値が高く、砂地よりも粘土質の方が低い。肥料も、カリウム分が少ないと作物がセシウムを吸収しやすいのです。そこで自主基準値を1キログラムあたり20ベクレルと決め(政府の基準値は同100ベクレル)、農場と品目ごとに基準をクリアしたものをウェブ上で発信しました。この、消費者も加わった測定方法と情報発信は、消費者に納得して受け入れられました。このことは社会心理学でいう「主要価値類似仮説」にかなっています。信頼が毀損した状況下では、自分と価値観を共有していると思える人たちの言葉が耳に入ってきやすいものなのです。
円卓会議のプロジェクトで農地の土壌採取
この活動を通して、福島県いわき市の市民グループとつながりができ、2013年11月から、いわきの海洋調べ隊「うみラボ」を開始しました。福島第一原発沖に船を出し、まずは海水と海底土の放射線測定、そして検体採取のために魚釣りをしようというものです。漁業禁止水域では、初心者でも大きなヒラメが面白いように釣れます。それらをいわき市の水族館「アクアマリンふくしま」に持ち込み、魚の生態を学びながら放射線を測定し、ついでに福島産の試験操業で獲れた魚を試食するイベントを企画しました。原発周辺の魚の放射線濃度はすでに東京電力から発表されていましたが、自分たちで確認することが重要なのです。「でかいヒラメが釣れた!」といううれしい驚きや、その画像をウェブで見ることで、魚の生態に興味がわく、そして食べられるかどうか、放射線について考えたくなるという流れをつくったのです。これは、意思決定に係る「二重過程理論」に見合っています。人は、直感的な判断をする場合(システム1)と、じっくり考えて決める場合(システム2)を使い分けています。システム2で食品の検査結果を判断すれば、流通している食物はすべて安全だと理解できます。しかし、福島の食品を食べずに日常を過ごす人の中には、事故直後のイメージを変える動機付けもないままに、システム1の判断で忌避反応を示す人もいます。そういう人に、じっくり考えましょうと言うだけでは通じないのです。
上野のまちに興味を持った原点は、学生の頃、台東区の区議会議員選挙に出た親しい先輩の選挙運動を手伝ったことでした。柏の円卓会議は、イベントが面白くて始めた活動の場に降りかかった問題解決のためでした。そこから、いわきにも関わるようになりました。五十嵐さんは、自身のそんな研究スタイルを、「来た球を打ち返してきただけ」と謙遜して表現します。しかしその裏には、社会科学で社会の問題を何とかしたいという熱い思いがあるはずです。
社会調査実習の授業にて調べラボの見学と手伝い
社会調査実習の成果報告会には、ともに「うみラボ」を企画した
いわきのローカルアクティビスト、小松理虔氏も登壇
文責:広報室 サイエンスコミュニケーター